ソシオパス日記

反社会派ブログ

ストリートスマートとエリート

起業もエリートサラリーマンもやってきた私は、こうしたいな、これが欲しいな、と思ったことはすべて綿密に計画した上で積極的に打ち手を打つことで、欲しいものを手に入れてきた。その綿密な計画というのは、計画というほどのものではなくて、自分がこれを手にいれるためにはこのようなストーリーになる必要があって、その中で自分に求められるふるまい(というより演技)はこれだ、という結論を出した上で、その通りにふるまうだけだ。

 

具体例で言えば、たとえば自分で起業したもののキャッシュが足りず出資が欲しいとしたらどうしたら投資家から出資を集められるかを考える。その際には3つのパターンがあって、1つめに友人から紹介してもらった上で会って確約する、2つ目にスタートアップのイベントにいってプレゼンなどを通じて投資家と出会い、後日会って確約する、3つ目にAngel List のようなサイトから投資家に連絡して会って確約する などがあげられる。

どの場合も何度も会ってお互いをよく知った上で投資をするので、2~3回ご飯なりミーティングなりして、犬のように相手が好きでかつ自分は純粋なチャレンジャーであることをアピールした上で、数字に関する部分はしっかりしたものを見せ、最後に投資を決め込む。あまりダラダラすると相手もダラダラして良いのだと思って慎重になりがちなので、他の投資家が投資したいと言っているみたいなことを言ったりちらつかせることで焦らせる。出資するという言葉を一言でも出したら、考えが変わる前にすぐに契約書にサインさせ、振り込ませるまですぐに終わらせる。お金がこちらに振り込まれたのを確認するまでは一瞬足りとも気を許してはいけない。

 

働きたい企業を見つけたら、面接まで行けばこっちのものだ。履歴書に関しては詐称まで言わないがかなり大げさに成果をアピールしたものを作って、まるで最強の人材であるように見せかける。面接に行くまでに、その会社はどういう人材が欲しいのかを企業サイトなどで見た上で "会社にとって理想の人材" の演技をする。理想の人材になるのは別に難しいことではない。言うなれば、バーで見つけた女の見た目や格好を見て、この女はこういう男が好きなのだろう、というのを想像してその通りの男を演じてナンパを成功させるのと同じだ。会社は女と同じで、こういうやつが好きなんだろ、というのをうまく汲み取ってその通りの人間です という顔をしていればいい。入社さえしてしまえばこっちのものだ。

 

何においても、重要なのはストーリーで、自分のことを考えないことである。投資を集めたいのなら投資家側のストーリーに立って考え、入社したいと思う会社側のストーリに立って考える。投資家なら、自分の投資のポートフォリオを増やすためにどこかに出資したいが、出せる金額は~~円くらいで、若い元気のある人がいいな だとか、会社であれば、この職種の人間が足りていないから採用したいが、ある程度経験があって素直だけど頭が切れて手を動かせる人がいい などなど、会社側や投資家側の思惑やストーリーを描く。そして、そのストーリーに求められる通りの人間になりきる。そうすると、彼らの決定は合理的になるから、彼らも後悔しない。

 

多くの人が自分のことを気にするから失敗する。怠けたい、お金が欲しい、働きたくない、そういう欲は資本主義的に正しくないことが多いので、一切足りとも見せては行けない。資本主義の世界で正しいのか正しくないのか、その判断軸で物事を決定していれば、基本的には富が手に入る。

 

世の中では、このように状況に応じて知恵を働かせられることを "ストリートスマート"という。勉強のできるエリートはいわゆるアカデミックスマートというが、勉強ができずとも知恵の働く者はストリートスマートといい、生きていく上ではストリートスマートの人間の方が得てして活躍できる。起業家にもストリートスマートな人間が多い。エリートは勉強ばかりしてきていて、世間知らずだったり知恵のない者がいるため私はあまり好きではない。なんというか、羊飼いに飼わされている頭の良い羊たちだ。私からすれば羊であることに変わりはない。檻の中にいれば安心だが、そこに自由はない。

 

エリートの人間は、一度ドラッグを決め込んだりして徹底的にワルになってみることをおすすめする。計算した上でリスクをとって犯罪を犯し、犯罪を犯すことを楽しんでみると檻から外れるような感覚を味わい、だいぶ世の中への見方が変わる。そうすると自分の頭で考える必要が出てくるので、知恵が働いてくる。個人的には、徹底的に勉強をしていて論理的で優秀な頭を持っている悪人は知恵が働くことが多く、経済ヤクザなどはまさに最強の部類だ。他人の人生を犠牲にして成果を出すことに躊躇しない人間になると、もう成功は約束されたも同然。

「キャリアパス」を考えられない

私のキャリアパスは客観的に見て中〜高階層に位置するものだろう。一流私大を卒業し、誰もが知っている日本のIT大企業で、数年間のあいだ幹部候補生としてマーケッターとして数年勤務したのちに小企業で働き、そのあとに自身でIT企業を創業して資金調達などをしたもののCEO交代のオファーを受けてCEOを退任している。どこにでもいけるとまでは言わないが、そこそこ綺麗な履歴書になっている。

しかしこれは結果的なものであって、自分から計画してこのようにしようとは夢に思わなかった。その時々になんとなくやりたいことや、自身の利益になることを追求した結果こうなっただけだ。また小企業で勤務したとも書いたが、これは6ヶ月程度で辟易してすぐに辞めてしまっているし、とにかくやりたい放題やってきた結果こうなっただけであって計画的にこうなったわけでは全くない。

そもそもキャリアパスというものを考えることが私のような人間にとっては苦手なことだ。そのとき、今この瞬間に面白い、楽しいと思ったことにのめりこむし、のめりこむと止まらないのだが、計画的に今はこうすべきだから今はこの仕事をする、みたいな脳があまり働かない。もっと小さいころからすべて計画的に生きていたとするならば、小学生くらいのときにプログラミングを始めて、コンピューターサイエンスの学士を取ってソフトウェアエンジニアになり、ある程度経歴を積んで自分で会社を創る...そういうようなことをしていたに違いない。なぜなら昨今で莫大な富を創り上げている者の多くが優秀なソフトウェアエンジニアだからだ。

しかし長期的な計画性を持って何かをすることができないので、たとえある仕事が、キャリア的に問題があるとしても、退屈だったり自分の利益にならないようなことはすぐに辞めてしまう。そしてそれが時として社会的に問題のある行動をしている、と受け取られやすい。だが、今の時代であと10年後に自分がどうなっているかなんて想像できない時代になっているので、多少問題ではないように認識をしている。

私の周りにいるサイコパスやソシオパスの人間たちに関しては、まちまちだ。ただ1つだけ言えることは、1つの組織に長く勤めているソシオパスやサイコパスはいない。大抵転職を繰り返しているか、自分の会社を持っているか、フリーランスをしているか、といった具合だ。どいつも頭が切れるので、お金に関しては問題がなく、どいつも自分の好きなことに熱中して働いている。だいたい自分の人生では自分はこうしよう、というのを決めているが細かいことは流れに任せていると言ってもいい。

だいたい、1つのことをやってみてダメだったらこっち、というように軌道修正できない社会システムに問題があるように思うが。

今までに出会ったサイコパスたち

なんでかは分からないが、この人間はサイコパスもしくはソシオパスだな、ということが昔から直感的にわかる。そして実は私は彼らと良き友人で、なんなら自分の中ではかなり仲の良い友人たちの部類に入るし、私自身彼らのことが好きだ。実際、彼らも人脈は広いし多くの人に好かれている。ただし多くは顔を作っているだけで、私の前でだけはよく本性を見せてくる。おそらく近しいものがあって私は信頼できるからなのだろう。

ちなみに全員男性である。どいつも共通しているのは女が大好きで、取っ替え引っ替えと女と遊んでいるのと、とにかくスリルが好きで自分からスリルを味わうために危険な場に行ったりするし、それとふとした時にものすごく冷酷だ。多くの人にはそういったマイナスなポイントについては隠し決して教えたり見せたりしないが、私にはこの前は駅で女に話しかけて落としてセックスしただの、警察の目を盗んでやれやらかしただの、様々なことを話してくれる。私も同じようなところがあるので、彼らとは話が合う。ちなみにベンチャー界隈には特に多いので、サイコパスが企業経営者に多いというのはあながち間違っていないように思う。

彼らはとにかく頭がいい。この頭がいいというのは試験の点数が取れるだの数学ができるだのそういうことではなくて、とにかく人を利用するのがうまく、恐ろしく機転が利く。彼らの頭の中では、誰になにをして、どこに何をすればこうなるという方程式がすべて既にできあがっていて、その方程式の中で自分に求められる振る舞いを求められるがままにやる。そうすれば方程式内で登場する自分の役目は終了し、あとは自動的に物事が進んでいく。いわゆるそういった処世術と言うようなものにものすごく強く、常に自分にとって有利な状況を作り出すことができる。

営業のスキルを持ったサイコパスなどはもはや最強だ。私は一度そういった人間と話したことがあったが、スキルなどという言葉では形容しがたい、もはや芸術と言えるほどの説得力のある営業ができる。つまりあちらが何を言えばこちらが何を言い、そしてこちらが言ったことに対してはこう回答する...というように、会話の内容はすべて計算されている。よって、どういった言葉を使うのかという点でかなりセンシティブというか、注意深く言葉を選ぶ。

私は、もっと頭を使ってどうこうすればそういうことはできるのかもしれないが、同時に私はものすごく怠惰な人間なので、自分で会社を起業し経営するなどといった、人生の中でも本当に本気を出して全力で何かをする時以外にはそこまでしようと考えない。ましてや他の誰かが経営している会社で従業員として働くときなどは、そこまでしようともしないという意味で、手を抜いている。会社内での昇進などには興味がないから、と言ってもいい。従業員として昇進して年収が少しあがるよりも、さっさと自分の会社を作って株式を売却した方がよっぽど莫大な金額が手に入るからだ。会社員である限りは誰かに雇われている身で、事業オーナーよりもお金を手に入れることは事業のオーナーが許さない。よって事業のオーナーにならない限り基本的に大きな富は手に入らない。

ちなみに、会社員で本気になれないのならその後もダメだ、という人間もいるがそれは間違っている。株式を持って会社を経営することと、年収をもらって会社に勤めることは180度違うしエネルギーの入れようも全く違う。経営側はいかにして給与を減らすかを考え、勤め人はいかにして給与をあげるかを考える。ベンチャー企業が成功する理由に関しては学術的な調査が何度か行われているが、どれにおいても言えるのはCEO単独の素養は相関性が比較的弱く、事業機会があるのか、経営のチームはどんな人間たちなのか、そしていくら資金調達できたのか....そういった要因の方が相関性が強い。

エリートサラリーマンも起業も経験している私からすれば、サイコパスやソシオパスはどちらでもうまく生きていける人が多いが、どちらかというと起業向けだと思う。成果を出すことに関しては非常に強いし、他人を犠牲にしてでも目標を達成することができるが、成果に関係のないアホらしいことへの対応は得意ではない。成果は数値などで客観的に表現されわかりやすいのに対して人間の感情などはよくわからないので、人間の感情や他人の価値観に関係するようなことになると途端によくわからない。数値やコンピュータープログラムなどに関しては強いが、何かを言ったことで誰かの心が傷つく、みたいなことに関してはめっぽう弱い。大きな組織では政治力や、成果よりも長くオフィスにいることが重要などといった空気があるときがあるので、そう言ったことには対応できずすぐにやめてしまうだろう。

今までに出会ったサイコパスの人たちは多様な職についているが、1つだけ言えるのはどの人も年齢に関係なく独立していることだ。技能を持っていてフリーランス的に働いていて独立していたり、自分で会社を経営していたりする。会社に入って誰かのいいなありになることはあまり得意ではないだろうが、それぞれの技能やスキルは目覚ましいものがある。

怠惰すぎること

私は自分で言うのも変だが、非常に怠惰だ。怠惰すぎて気をつけないと、ずるずると後ろ髪を引っ張られてしまいにはホームレスになって何もしない、ということになってしまうのではと危惧してしまうくらいに怠惰だ。たとえば、買い物をしにスーパーマーケットに行って買い物袋を持って家まで歩く、ということが耐えられないのでネットスーパーの宅配を利用する、といった具合に、”頑張る” ことができない。

とにかく楽をしたがるので、それが怠けていると周りに思われることは少なく無い。しかしより正確には、最短ルート、つまりショートカットをとっているだけだ。ニンテンドー64マリオカートでうまくショートカットを使えば早くゴールに着くことができ、周りに勝つことができるが、そういうことが好きなのだ。卑怯な手を使って楽して勝つことが。しかもその結果を持って「お前は俺よりも無能である」ということを、相手が敗北したという事実を根拠にして説明することが好きだ。

勤勉であること、もっというとハードワークであることを求める日本社会では、えてしてこのように怠惰であることを許さない人たちがいる。楽して5時間でお金を手に入れるよりも、10時間かけてもっと努力してお金を手に入れよう、という具合に。時間を長く使うことで最大量の成果量をあげようという目的なのだろうが、経済理論的には時間を伸ばしたからといって成果量が増えるということはなく、時間が増えるにあたって時間あたりの成果量は減っていく(収穫逓減の法則)。また1日あたりの労働時間は8時間を超えると精神疾患にかかるリスクが数倍に上昇することからも、最適な労働量は1日8時間以内に全力をあげることが現時点では最適と言える。

リソースがあるから人はリソースで解決しようとしてしまう。筋肉があってできてしまうからスーパーで買い物をして重い買い物袋を持って家に帰ろうとしてしまうのであって、筋肉がなかったり障害を抱えていたらネットスーパーを利用する。お金や時間があるからあるタスクをお金や時間をかけることで解決しようとしてしまう。そもそもリソースがないという前提に立つだけで実はよりリソースをかけずとも解決する方法を見つけることができる。これは労働にも当てはまっていて、1日8時間しかないという前提で働くことと、1日いくらでも働くという前提で働くのでは仕組みに対する意識が違う。労働量を増やすことでなんとかできてしまう状態だと、仕組みを変えたり、新しい仕組みにすることで少ないリソースで何かの業務を解決しようという気がわかない。

目標は実現不可能なレベルに高く設定した方が良い理由はここにある。頑張るだけでは絶対に達成できないので、仕組みを変えることを意識するようになる。コストカットの目標が異常に高く設定されているからこそ、部署ごと人員全員クビにする、という決定を下すことができる。中途半端な目標だと、人員削減しなくてもなんとかできてしまうので中途半端に終わってしまう。目標は実現不可能なレベルに高く設定した上で、それを達成する方法を考える。もし達成する方法が思いつかなくて、いろんな人に相談してもできないのなら、それは下げた方がいいかもしれないし、企業内では目標達成度でボーナスなどが上下するところもあるので目標はあえて低めにして自己目標は高めにしておく、など工夫は必要だが。

私はそういった目的を達成するための手段としては人殺しなどといったことはしないし、そういった事件に巻き込まれた遺族のことを考えると口にも出せないようなことだが、人殺しをしないと目的が達成できないので仕方なくやらざるをえないサイコパスは存在する。ただし、現代では人殺しのような非人道的なことをすると見つからないようにすることが非常に難しいということと、見つかると社会的な評価が地に落ち結婚も就職もできなくなるなどデメリットの方が圧倒的に大きいので、よほどのことでない限りまともなサイコパスはやらないだろう。ましてや殺人のようなことをして警察に見つかるなどといったことは、絶対にやらない。

話が少しずれたが、私はとにかく楽して何かを達成するということだけに対しては脳が120%稼働する。本来は社会的に許されないが成果を出すことができる方法を見つけたりするとニヤニヤが止まらなくなり、もうやらないではいられない。たとえば、ある人に何か絶対に言ってはいけないことをそそのかして言わせて、それをレコーディングして保存しておき、あとで訴訟を起こして賠償金を手に入れて働かない生活を手に入れる、などいったことを考える。消えてもらいたい人間がいた場合には、自宅の庭に忍び込み、手に入れた大麻を植えたのちに通報することで、社会的に抹殺できないかなどといったことを計画したりすることが好きで、実際には心のどこかにブレーキがあるので実行にはうつさないのだが、おそらく我慢できなくて実行してしまう人たちがいるのも理解ができる。

しかし、この怠惰具合は小さい頃からずっとあるもので、時として怠惰すぎることとが原因で社会的な問題を起こしてしまうことがあるため、困ったものだと思っている。

大企業を退職して

好業績を叩き出して評価されることを生きがいにして生きてきた私が、初めて挫折を味わった。それが企業での仕事だった。成果を出すためなら数人の人生が犠牲になるなどといった多少の犠牲は仕方ないと思うが、自分の人生を犠牲にすることは絶対にありえない。そう考えている自分にとって、成果を出すことよりも自身の時間を犠牲にすることを優先している人たちの存在が全く理解できず、かつそれに対してNOと言わない人たちもよく理解できなかった。一体なんのために仕事をしているのか、わざわざ自分から奴隷になりたいと志望して奴隷になっている人たちを見ているようだった。

何か問題が発生しても適当な解決策を念密に計画した上で解決策を打てばいつも問題を解決することができたが、そういう表層上のことではなく人間の本質的な価値観に関してはなかなか変えたり、コントロールすることができない。他人を変えることより自分を変える方が早いということは知っていたのでカメレオンのように、社会的に理想的な人間になっていたが(同時に八方美人にならないようバランスよく)、カメレオンだって奴隷のように働かせられないようにしようとしたときに、流石に色を変えただけでは対応ができない。鎖を外して逃げるしか方法がない。

奴隷のような労働を大企業で求められた私は、数週間後に退職届を出して退職。退職してからは零細企業でアルバイトとして働いたが、すぐに退屈してしまった。キャリア的に自分にとって有利なわけでもないし、本当に日銭を稼ぐためだけに働いていたので、すぐにやる気を失っていってしまった。会社自体は悪くないが、単に上にもあがらず下にも下がらない、日常が淡々と過ぎていくことが最高に嫌だった。半年程度経った頃に会社をやめ、独立することにした。

イデアベースでうまく投資家から資金調達をし、IT企業を数年経営した。毎月キャッシュが減っていく恐怖を感じながらとにかく必死に働いた。数人程度の従業員を抱える会社になったが、キャッシュフローは毎月赤字。ユーザー数を伸ばしていることを活かしてなんとか次の資金調達はできないものかと思っていたが、レベルの高いプロダクトを出すためにリリースに時間がかかってしまっていた。ようやくリリースしたプロダクトはなかなか良い感触だが、次の資金調達に至るまでには全くもって投資家に訴えられるくらいのユーザー数はいない。キャッシュが尽きる前日まで全力で走るつもりで勝負をかけていたが、キャッシュが尽きる前に株主側から経営者を交代するオファーがあり、単独拒否するほどの株式を十分に持っていなかった私は会社を突然追われてしまった。

高校生くらいから成果を出せない無能は消えるべきで、成果を出せるものが生き残るべきだと信じていた私にとって、ビジネスで成果をうまく出せずに終わってしまったという経験はすなわち、自分は無能であったという帰結になる。実際、私はある程度のレベルまでにいったという意味ではある程度は有能で、それ以上まではいけないレベルに無能だったのだ。大きな組織で働くことにうまく慣れることができず、退屈な仕事に飽き飽きし、自身で立ち上げたベンチャー企業も成功とも失敗とも言えないレベルだった私の中では、自身は学業の世界では成果を出せても、ビジネスの世界においては成果をまだ出せていない。つまりビジネス界ではある程度のレベルまでには行けるが、それ以上まではいけていない人間、という客観的評価が下せる。もしビジネスの世界ではダメなら、より高い成果を出せることに集中するよう業界や勝負する場所をシフトさせた方が自分のリソースを最大限活用することができる。

だが、2~3社程度で自身の可能性を断定するのは早計でもある。もう少しいくらかビジネスにおける経験を積んでからでないと自身の適正は見えてこないと考える方が合理的だし、手っ取り早く経験を積むならさっさとどこか会社に入って働いてみることが自然だ。日本の大きな企業には合わなくても、外資系なら合うかもしれないし、自分で立ち上げたビジネスだって、ITではなければまた違うかもしれないし、日本国外でやればまた違うかもしれない。よって、次にやるべきことはそういった今までとは違うことを消去法的に見ていくことなのだろう、とひとまず結論づけている。

 

自分はソシオパスなのでは、と思い始めた頃

小さい頃から貧しい家庭で虐待やいじめを受けて育ち、涙を流して懇願しても誰も助けてくれないし、人が1人死んでも何も世の中は変わらないということを中学生くらいにはわかるようになっていた。小学生くらいまではまだまともな人間だったような気がするが、中学生や高校生くらいからは笑っているフリ、悲しいフリ、楽しんでいるフリ…いろんなフリをして先生や周りの学生に溶け込むようになった。その方が世の中が楽に進む。

高校時代に勉強というものが面白くなってしまい、のめり込んだ。相変わらず人の感情というものがよくわからなかったが、数学や英語などは非常に客観的な唯一の答えが出てくるのが面白かった。間違えた回答を出した他の生徒に対して、正しい答えを伝え、「これは比較的レベルの低い問題である」などと言うことでお前は無能、と間接的に伝えることに喜びを感じていた。

高校学内では常にトップの成績で、偏差値なども抜群にトップ。レベルの低い授業では他の授業に集中するため睡眠に時間を利用したりして怒られることがあったが、テストの結果はいつも満点でトップなので先生たちもあまり私を責められなくなっていた。

大学は一流私大に合格し入学。学費はほぼすべて奨学金を利用した。貸与のものが70%ほどで、30%は給付。学内では倍率がかなり高い奨学金1つと、まぁまぁ倍率が高い奨学金1つをダブル受給することができたが、ダブル受給は当時なかなか珍しかった。貸与を利用したのでローンは残ってしまったが、利率はかなり低いものにした。これらの奨学金を出してくれている団体や組織への感謝は言葉では表せない。いつか直接感謝したいが、まだタイミングではない。

在学中も様々なことをした。大学時代は貧しかったが楽しく、自由闊達に議論をしたり遊んだり、真剣に研究をしたり遊んだりして精一杯楽しんだ。研究では社会学について研究したが、特に魔女に関する研究は非常に興味深いものであった。魔女や悪魔などの邪悪なものに心が惹かれるのを止められず、図書館などで悪魔について調べたりしていた。

悪魔は存在しないし、魔女はスケープゴートでしかないのだが、両者ともどこか黒いのだ。人間が感じる恐怖、怨念、そういった黒い感情が具現化されているという意味で非常に興味深かった。同時に北欧神話ローマ神話ギリシャ神話などの神話にも興味を持ってのめりこんでしまった。人が思う神は完全体なのだが、どこか冷酷かつ自己中心的で性的にだらしない。教科書に載っているような完璧に白い精神体なのではなく、どこか神も黒い部分がある存在なところが面白かった。日本の神話だって、生贄を準備させて人を食ったりするものもいるし、どこか黒い。そしてその生贄というところが、魔女にどこか似ている。つまり人類はどこの世界でも、誕生してから今に至るまで、何かを誰かのせいにして虐めることで自分を保ってきたのだ。そしてそういうことは、社会不安が高まっているときにこそ起きやすい。

大学を卒業した。”理想的な人材”になることは得意だったので、日本では超一流といわれる企業に入り、幹部候補生となった。どの人もなかなか手強いというか、頭が切れる人間たちだった。しかし、どこか物足りなさを感じていた。退屈ではなく、どこか良い人にならなければいけないのが自分に合わないと感じていた。良い人にならなければいけない、なぜなら会社の人たちがみな良い人だからだ。ある同僚が他人を騙して、得をするような施策を実行しているのを聞いたときには、心が踊り、こいつはなかなか面白いやつだと思い、自分の中での仕事における楽しみを見つけたものだった。

幹部候補生というものは特定のスキルを学ぶわけではなく、その企業において様々な役職を経験しなければいけない。つまりいろんなところに飛ばされる。毎回違うチームに飛ばされ様々な役職に就かなければいけないのだが、あるとき無能な管理者がいるチームに配属され、成果に関係のないことを評価する空気があった。つまり成果を出しているかどうかよりも人材の育成や、どれだけハードに働いているかを評価する、といった具合だ。仕事は成果に関係のないことを求められ始めた途端に、何をするべきかがわからなくなる。成果を出したのにも関わらず、あまり働かないから、もしくは成果の質に疑問があるなどといった理由で叱責を受けるなどといったことが重なり、混乱した。

それまでは何においても最高の業績を出してきた私にとっては最大の屈辱だった。上のものに異動をお願いするも、どこの役職も空いてないので我慢してくれということで、チームに居座ることを我慢しなくてはいけない。合理的に考えれば、チームで役立たずの上に異動するポジションもないのだから会社は私を首にするべきなのだが、首にするといろいろと不都合があるからなのか首にはしないようだった。「お前無能なのになんでいるの?」というチームの空気がありながらも机につき、ミーティングなどにとりあえず参加する。チームにおける大切なミーティングにも呼ばれなくなっていった。

失望していた。無能な管理者にも、その管理者にたてつかないチームメンバーにも。労働契約書に残業代は月30時間以内は残業代は出ないとあるから、合理的に考えて残業しても損をするだけなのに残業を強要してきた。私は拒否し、残業しなくても業務を回すことができる仕組みを提案したが、「楽をしようとしてはいけない」と却下されてしまった。管理者もメンバーも毎日遅くまで残業していたが、私は一秒たりとも残業しなかった。管理者と対峙するだけではなく、管理者にNOと言えないチームメンバーたちからも私は孤立していった。あまり荒波を立てたり”良い人”でいなくなるのを恐れていたのだろう。

ある日、ベッドから起き上がれなくなった。まさに動けなくなってしまい、ベッドから出られなくなった。出社の時間になると、突然自宅で嘔吐してしまった。熱かもしれないと思いひとまず休みを取ったが、休みを取ると決まった直後に体調が急回復し、熱でもなんでもないことがわかった。身体がストップをかけたのだ。金銭的な懸念やキャリアに傷がつく可能性などはあったが、身体の健康の方が大事であると判断し、私はその数週間後に退職届を提出してすぐに退職した。

つづく